美術ミニ事典

あ〜さ


印象派
 1860年代から80年代にかけてフランスで起こった,絵画を中心とする芸術運動。ルネサンス以来の大きな変化を美術表現にもたらしたといわれ,欧米のみならず日本にもその影響は及んだ。

(1)色彩 色は混ぜるほどに明るさは失われてゆくが、色を混ぜないで画面の上に点描で2色を併置すると、少し離れたところで見ると混合して見え、必要な色をより明るい状態でとらえることになる。また、光の中にはそもそも黒は含まれておらず、光の豊かな戸外ではすべてが明るく見える。よって従来考えられていたように、物にはそれぞれ固有色(ローカル・カラー )があるという考えは打破され、光が物質に反射してそれが目にはいるときに色が見えるということが、体験的に理解されていった。

(2)構図法 構図法においては日本の浮世絵と写真から大きな影響を受けた。特に浮世絵からの影響として極端な俯瞰構図や、唐突な画面の切り方、前景に大きなものを配して中景を抜き突然遠景をつなげるやり方、物のボリュームを無視し輪郭で切り抜いた平板な形態などがふんだんに盛り込まれた。

(3)主題 主題の選択においては、宗教画、神話画、歴史画に背を向け、風俗や肖像、静物といった市民的なジャンル、身辺のありふれた風景などをその主題として取り上げた。

※ 印象派の名前の由来は展覧会を取材した新聞記者が、モネの作品「印象・日の出」から出品者達を揶揄する意味で「印象主義者達」と言ったことからこのグループの名称になった。

◇マネ   douard Manet1832‐83 
 ベラスケス風の明暗の強いコントラスト,力強い筆づかい,平坦な画面が特徴。1863年の落選展の《草上の昼食》においては,ラファエロやジョルジョーネの作品を下敷きにしながら,それを神話のベールに包むことなく同時代の風俗として描き話題を呼んだ。その革新性を慕って多くの若い画家たちが彼のもとに集い,印象派を形成することになる。

◇モネ Claude Monet 1840‐1926
 フランス印象派の代表的画家。1874年に開かれた第1回印象派展に「印象・日の出」ほかを出品が,結果はわずかな好意的批評家を除いては悪意に満ちた中傷のうちに終わった。その後も彼らの作品の新しさはなかなか社会に受け入れられず生活は苦しいものだった。しかし画面はますます輝きを増し,筆触は細かくなり画面から濁色が消えて,とくに朝や夕暮の微妙なニュアンスに深く関心を抱くようになる。「ルーアン大聖堂」(1894)では構図を固定したうえで時間と天候の推移による色調の変化だけを追うという試みを行った。また90年ころから《睡蓮》の連作を始めた。

ドガ  Hilaire Germain Edgar Degas 1834‐1917
 競馬,オーケストラ,バレエなどの主題を,前景・後景を唐突に対比させる思いがけない構図,対象を高いところから見おろす視点など,当時流行の浮世絵版画から学びとった技法を駆使して,きわめて斬新な作品を制作していった。ドガは印象派芸術の中心的方法である,戸外の光の下に対象を直接にとらえてゆく制作方法をとらず,つねにアトリエで制作した。

◇ルノアール Pierre‐Auguste Renoir 1841‐1919
 印象派における人物画家として,1,2,3,7回目の印象派展に出品。

シスレー Alfred Sisley 1839‐99
 フランス印象派として活躍したイギリス人画家。印象派の中では モネ,ピサロとともに風景画家グループをなし,1870年代の印象派の画風を最後まで変わらず持ちつづけた唯一の画家である。画風はイギリスの風景画からの影響が濃厚で,低い地平線によって空の大気の微妙な状態や雲の力強い動きを伝えようとし,かつその自然の堂々たる威容を安定した構図で表現した。


浮世絵

 浮世絵とは江戸時代に流行した庶民的な絵画のことであり、絵画様式の源流は「やまと絵」につながり,直接的には近世初期風俗画を母胎としている。町人の絵画として、武家の支持した漢画系の狩野派とは対立するが、様式の創造的な展開のために、その狩野派をはじめ土佐派、洋画派、写生画派など他派の絵画傾向を積極的に吸収消化し,総合していった。安価で良質な絵画を広く大衆の手に届けるために、表現形式としては木版画を主としたが同時に肉筆画も制作し、肉筆画専門の浮世絵師もいた。

◆浮世絵版画


版下…絵師の描く版画の原案原図。墨で描かれる。髪の毛など一本一本の細かい線までは描かず、彫り師のうでに任せる。版下には丈夫な薄い美濃紙などが使われる。
版木…日本の場合、版木はサクラである。版木を扱うのが板屋で江戸時代はその専門店があった。
筆耕…版本の挿絵の場合、文中の文字は絵師の仕事ではなく、筆耕の仕事である。錦絵の場合でも、外題(げだい)や讃、狂歌、俳句など書き込みは筆耕の仕事である。錦絵の内容に応じて書体も工夫していた。
彫り…墨描きの版下絵を彫り上げるのが第一版である。これが錦絵の完成に至るまでの骨格になるので、最も重要な仕事である。彫師といわれる。
刷り…版下絵から墨刷りは何枚も作る。色訳に使うためでこれを絵師にわたし、各部分に色の指定をしてもらう。絵師は色を文字で指定するだけで、必ずしも色をぬったりはしない。8色刷りにするときには8枚の墨刷りに色を指定する。

◆刷りの種類

墨刷…浮世絵の初期の一枚絵
丹絵(たんえ)…墨版に手で色をぬった彩色絵。丹色を主にして、草色や黄色、薄藍、紅などを加える。
漆絵…墨色を強めるため、その部分に「うるし」かまたは「にかわ」をぬり、光沢を出そうとして。
紅摺絵(べにずりえ)…色版を使った多色刷り。色はまだ簡単で紅、緑、黄色など。
錦絵…紅摺絵が発展して本格的な多色刷りになる。顔料に胡粉を混ぜた中間色も使われ、色調は複雑で微妙なものになる。
雲母摺(きらずり)…下地に藍ねずみ色を薄く刷り、その部分に糊を付けてその上に雲母の粉末を振りかけ、乾いてからあまりの粉末を落とす。

浮世絵師

[初期]

菱川師宣万治・寛文年間(1658‐73)に江戸に出て挿絵画家の群れに加わり,悪所の風俗を描いて評判を得,ついに鑑賞用の版画を独立させて浮世絵の基をひらいた。版画のみならず肉筆画の量産にも力を尽くして,平民的な絵画を江戸の地に普及し,発展させた。

[中期]

鈴木春信中間色や不透明な絵具を多用し,安定感のある配色に絶妙の感覚を発揮し,錦絵時代にふさわしい色彩画家であった。人形のように無表情な細腰の優しい男女を主人公として,古典和歌の詩意を時様の風俗の内にやつし,あるいは伝統的主題を平俗に見立てるなどしながら,浪漫的情調のこまやかな風俗表現に一風を開いている。
鳥居清長清長の美人画像は八頭身の理想的なプロポーションをとり,大判二枚続,三枚続の大画面に展開され, 開放的な野外風景の中で,群像として知的に構成される。
喜多川歌麿
現実の遊女や町娘,あるいは身分,性状を特定された女性を半身像(大首絵(おおくびえ))に描き,微妙な心理や感情の表現に新風を開いている。浮世絵美人画は,これら春信,清長,歌麿の3巨匠によって成熟の頂点に達した。
東洲斎写楽
雲母摺(きらずり)大首絵の連作で華々しくデビューした。似顔表現を理想化の装いの内にくるみこんだ豊国の役者絵は大衆的な支持を得るが,残酷なまでに実像の印象を伝えた写楽画は,話題となったが一般には受け入れられず,翌年早々にはこの天才絵師の作画は中絶されてしまう。

[後期]
葛飾北斎洋風表現を積極的に取り入れてその端緒をひらき,1831‐33年(天保2‐4)ころに発表した《富嶽三十六景》の成功によって風景画を定着させた。
歌川(安藤)広重
33年には葛飾北斎の後を追うように《東海道五十三次》を出し,これ以後しばらく両者の風景画競作時代がつづく。両者の作風は対照的で,北斎の造形的配慮を優先させた厳しい景観と異なり,広重の風景画は現実の自然に近く,詩的な情趣があって親しみやすい。北斎と広重は花鳥画でも風景画と同様の作風の差がある。